<校長室の窓> 教育の本質
- 公開日
- 2019/09/17
- 更新日
- 2019/09/17
校長室の窓(〜2020年度)
本日、全教職員で、
私が心から敬愛する東井義雄先生の次の言葉を共有しました。
東井義雄先生の言葉
川は岸のために 流れているのではない
川のために 岸ができているのである。
子どもは 学校のために来ているのではない
子どものために 学校があるのである。
学校は、できない子をできるようにしてやるところです。
わからないという子どもをわかるようにしてやるところです。
わからない子のために、学校があり、先生があるのです。
教育という仕事は、
子どもを自分の脚で歩けるようにしてやることだ。
授業の創造ということは、テクニックの追求ではない。
教師が古い自分を切り捨てて、新しい自分を生み出していく、
創造的な仕事である。
「学問」の「学」も「問」も、学ぶ側に属するのです。
「はてな?」「なぜかな?」という「問」を育てるのが授業です。
「問」を封じたり、
「問」を持っている子どもを脱落させてはいけません。
教科書にあるのは、素材である。それが生きたものになるかどうかは、
教師に「願い」があるかどうかにかかっている。
「願い」がぼやけていては、授業にならない。
マンネリズムの中に教育はない。
非教育があるばかりだ。
教師の目指すものと、全く逆の考えを持つ子どもも、
粗末にしてはならない。
口で教えることの安易さ、待つことの大切さを知ろう。
きびしさを、私は先生方に大切にしていただきたい。
しかし、憎しみや呪いや冷酷さを育てるようなきびしさだけは
どんな場合にも避けていただきたい。
先生方には、
せめて子どもに負けないくらいの生気のある朝のあいさつを、
帰りには、
生気のある明日の出会いを期待したあいさつを、お願いしたい。
ひとりひとりの背後に「親」がある。
子どもは「祈られている存在」である。
東井義雄先生の言葉の本校HPへの掲載は、
東井義雄記念館から許可をいただいています。
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