校区内の鉄道のお話
- 公開日
- 2012/10/15
- 更新日
- 2012/10/16
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昨日は、日本で初めて新橋〜横浜間に鉄道が走った、鉄道記念日でしたね。
校区にまつわる鉄道のお話です。現在中央線・城北線・名鉄小牧線に隣接した校区ですが、昔、校区に、「勝川口駅」がありました。
もともとは、中央電気鉄道が、名古屋駅 — 岐阜県可児郡豊岡町(現在の多治見駅付近)間を結ぶ予定の路線でした。大正15年8月に、名古屋市西区の押切町 - 東春日井郡坂下村(現在の春日井市坂下町)の区間について敷設の免許が取得されていました。現在の中央線を補い19号線ぞいを走るようなの鉄道計画であったようです
その免許は、その後、城北電気鉄道、名岐鉄道(現在の名古屋鉄道の前身の一つ)と引き継がれ、建設に至り、昭和6年2月、上飯田駅— 新小牧駅間と味鋺駅 - 新勝川駅間で開業しました。
開業時には、上飯田駅—新小牧駅間と一体となって、城北線と呼ばれていたそうです。その後、昭和6年4月、新小牧駅—犬山駅間が開業すると、味鋺駅 - 新勝川駅間は勝川線と改称しました。実質的には、上飯田駅 —犬山駅間の大曽根線(現在の小牧線)の盲腸線と化しており、路線距離2.1キロ短く、ガソリン気動車が走りました。営業成績も低迷していたことから、昭和11年休止、12年にわずか6年で廃止されました。駅は、味鋺駅、勝川口駅、新勝川駅の三つでした。
住宅開発、区画整理が進んだこの路線で、痕跡は八田川橋梁の橋台でした。廃止後60年以上も残っていましたが、現在は撤去されています。
(昭和50年代の 知多中学校 郷土研究クラブの機関誌『校区の歴史を訪ねて』から)