米百俵の精神
- 公開日
- 2013/06/15
- 更新日
- 2013/06/15
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米百俵とは、明治3年、戊辰戦争で焼け野原となり、窮乏を極めていた長岡藩に、支藩の三根山藩から送られてきた百俵の米を、多くの藩士は飢えを凌ぐために使おうと考えましたが、大参事の小林虎三郎は学校設立の資金に充てたという故事です。
戊辰戦争で敗れ財政が窮乏した長岡藩に、支藩三根山藩から百俵の米が贈られてこました。藩の大参事・小林虎三郎は、米を藩士に分け与えず、売却した代金で学校を設立しようとしました。そのお金によって「国漢学校」という学校が開校したのが、明治3年(1870)の6月15日でした。
佐久間象山の門下生であった虎三郎は「早く、米を分けろ」といきり立つ藩士たちに向かってこう語りかけました。
「この米を、一日か二日で食いつぶしてあとに何が残るのだ。国がおこるのも、ほろびるのも、まちが栄えるのも、衰えるのも、ことごとく人にある。……この百俵の米をもとにして、学校をたてたいのだ。この百俵は、今でこそただの百俵だが、後年には一万俵になるか、百万俵になるか、はかりしれないものがある。いや、米だわらなどでは、見つもれない尊いものになるのだ。その日ぐらしでは、長岡は立ちあがれないぞ。新しい日本は、生れないぞ……」
分ければ数日間で使い切ってしまうが、人づくりに使えば、将来、何万俵にもなって戻ってくるというのがその理由でした。