龍源山 太 清 寺

南 門 玄 関 本 堂
郷土探訪(第56号)に見る太清寺
太清寺十王堂(阿弥陀堂)の今昔(長谷川 良市 著より)
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はじめに
春日井市勝川町二丁目の龍源山太清寺の境内にある十王堂は、阿弥陀堂とも呼ばれ、阿弥陀如来の両側に五人ずつの恐ろしい顔の十王尊が並んでおり、人は死後生前の善悪を十王尊によって順次裁かれて冥府に送られると言う。
現存の十王堂は昭和55年(1980)に建てられたものであるが、戦国時代には狼煙として焼失、江戸時代には下街道(旧国道19号)沿いの勝川札の辻(勝川町三丁目北部付近)に移り、約四百年を経て再び太清寺境内に移されている。本稿ではその変遷について述べることとする。
2 阿弥陀堂の焼失
太清寺の昔は醍醐山龍源寺と呼ばれたが、創建は定かではない。尾張国安食荘は醍醐寺領の一部として知られているが、昭和55年京都醍醐寺より発見された柏井荘との境界に関する中世後期の絵地図には、勝川村の記載もあり、龍源寺は真言宗派の寺であったと推察される。龍源とは清水の涌く地といわれ、庄内川流域から最初の段丘地となるこの辺りの小川には、昭和初期になっても「イモリ」の生息も見られた。
天正12年(1584)4月、小牧長久手の戦いに徳川家康は小牧山を出発して、豊場・如意を経て勝川に人り、龍源寺内の東方8間四方の阿弥陀堂に休憩後、戦の前の鎧・兜の装着をした。家康は庄屋の長谷川甚助を呼び、大川(庄内川)の深さと、この土地の名を尋ねたところ「徒歩(徒かち)にて渡れる徒渉川、かち川にございます」と応えた。家康は戦を前にして勝つ川とは縁起がよいと喜び、また甚助の妻が差し出した牡丹餅を食べようとしたが、箸が一本折れて、顔を曇らせた。その時すかさず甚助が「これはまさしく天下は一本に成るの吉兆でございます」と申し上げたところ、家康は笑顔隣なり、単衣などたくさんの褒美を与えている。初代の甚助の墓は太清寺境内にある。
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家康牡丹餅(家康の食べたぼたもち) (伊 藤 浩先生 編より) 小牧長久手の戦いで、家康公が小牧山から長久手へ出陣の際、勝川の名は縁起がよいと太清寺の阿弥陀堂前で休憩された。その折り庄屋甚助の妻が公に牡丹餅をつくって差し上げたところ、公が食べようと箸をつけられた時その一本が折れた。公は顔色を変えて、「不吉なこと、今日の戦運はどうかあやぶまれる」とつぶやかれると、頓知者の甚助が、即座に「これはまさしく天下は一本に成るの吉兆でございまする。」と謹んで申し上げた。これを聞いた公は、笑い顔に変えられ、おいしそうに牡丹餅を召し上がられ、鎧兜をしめ直し全軍を指揮して勝川(徒歩川)を渡り戦場に向われた。やがて、長久手の戦いで倍以上の秀吉軍に大勝利の後、道案内をはじめその功をめでられ、甚助に永代苗字帯刀をゆるされ、代々長谷川甚助と名乗るようになった。そのため甚助の子孫は、その思を忘れず4月17日の公の命日には、必ず御神酒と牡丹餅をお供えすることになっていたと、八代目長谷川甚助のかいた古文書に明記されている。 |
尾張徇行記は、さらに家康は出発の際、阿弥陀堂を焼き払ったとあり、日本戦史小牧役ではかがり火をもって小幡城に出発を知らせ、小幡城からもからも火を挙げてこれに応えたと記述している。当時の戦法では火を放つことも勝つための常套手段であったと思われる。
本堂東側にある甚助の墓
家康から受けた御紋入りの小袖布
3 阿弥陀堂の再建と干村家
阿弥陀堂の焼失後の龍源寺は荒廃が続き、名古屋宝林寺の舊岩和尚(きゅうがん)がこれを嘆き、弟子の宗悦によって慶安4年(1651)宝林寺の末寺として再興した。さらに寛文3年(1663)には寺号を龍源山太清寺と改め、享保11年(1726)には妙心寺の直属の禅寺となった。
一方、阿弥陀堂の再建は承応2年(1653)であり、焼失から約70年を経過している。
安藤直太郎先生の郷土文化論集に、熊野町にある密蔵院末寺の十王堂が牛毛(うしげ=旧字名)にあり、延法4年(1676)の大洪水により十王堂が勝川の地蔵川まで流され、阿弥陀堂に合祀されたと考証されている。
尾張徇行記には美濃久々利(現在の可児市)の代官千村平右衛門重長が、阿弥陀堂の焼失した余り木をもって、阿弥陀如来像を彫刻し堂宇を建立し、安置したと記述している。千村家は木曽山村家と共に関が原の戦いに軍功があり、幕府直参となっていたが元和2年(1616)より尾張藩の直属となり、重長は尾張藩への往来のつど必ず、この阿弥陀堂で休息していたという。
重長の没年は寛文元年(1661)であり、その10年前には太清寺、8年前には阿弥陀堂が再建されていることを考えると、寺に深い関わりがあったものと思われる。
太清寺の古文書の中に元禄5年(1692)前述の下街道札の辻地内に、阿弥陀堂用地、間口四間一尺、奥行二十五間を地主の新八から買い入れた証文がある。焼失後の再建用地を、商人や善光寺、伊勢まいりの通行人の多い下街道沿いに買いました証文である。この地は名古屋から最初の宿場であり尾張徇行記には旅舎15戸とある。
最近、阿弥陀如来像を安置していた白木作りの尉子の裏側に、文字が記載されているのが発見されたが、約150年を経過した墨痕は薄れ、かろうじて読むことができたのは次のものである。
| 尾州春日井郡勝川郷 龍源山太清寺 阿弥陀堂 大基宗悦首座 造建焉 這厨子 濃州久々里 千村十左衛門時重寄附 宝暦六年己子三月再修 堂住 鯨海祖寛 |
宝暦六年(1756)に千村家が堂宇や尉子を再修した記録であり、再建から約百年を経過している。堂宇より一段下がった南側の石垣の脇に等身大の灯籠が立ち、文政十二己丑(1829)村内安全と刻まれていた。
また最近太清寺から発見された千村家宛の控えと思われる文書には、天保十二年(1841)丑十二月とあり「御願申上候御事」と始まりその大意は次のようである。当時の控の阿弥陀堂は、先年酉年の天保8年(1837)の台風により格別の被害を受けた。お屋敷様が名古屋へお出掛けの折りは常時ご休憩いただいていたが、現在ではお堂の内外とも荒廃して、念仏や読経の声も聞かれず、献灯や供花もなく嘆いております。先に千村十左衛門時重様から、宝暦六年再修のご寄贈をいただき、今回も同様の思し召し賜りますようお願いいたします。太清寺から千村平左衛門様宛になっている。
4 明治以降の十王堂
十王堂は二間半と三間のお堂の奥に、16坪の庫裏があり、住職の中でここに隠居後住まわれた人もあった。お堂では疫病退散の祈願などの百万遍の大数珠を夕食後の一刻、村人が寄り合い、車座となって供養した。隣接した津島神社の祠では、田植えの後にお天王様の提灯まつりも行われたが、民家の密集地のため火災の発生を懸念して、提灯山まつりは半僧坊と金毘羅宮の小祠のある部落から離れた土地に移された。提灯山まつりは太平洋戦争前までは、毎年続けられていたが中止となり、平成5年に復活した。阿弥陀堂を十王堂と呼んでいたことは前にも述べたが、地元ではこれをなまって「オジョウドウ」と呼び、親しまれてきた。 明治初期、十王堂の向い側には「真守座(しんもりざ)」という芝居小屋があった。北側には愛宕社を祀る古填が現存しており、この周辺は勝川でも一番早く発展したところと言われている。
お堂の建つ敷地は3尺ほど高くなっていたが、洪水による浸水を避けたものであろう。敷地の半分は道路面と同じ高さであり、昭和初期には通学団の集合場所となり、椋(むく)の大樹がそびえていた。その本に登り「ミンナ
ミンナハヨコント イッテ イッテ
シマウゾ」と呼びかけたものである。
5 まとめ
昭和55年(1980)国道19号の拡幅工事のため,再び太清寺に移築完成した。1階は納骨堂、2階は阿弥陀如来が金箔の厨子の中に安置され、南側に十王尊を従えておられる。十王堂正面の掲げられている額は、名古屋徳源寺の瑞雲軒老師の揮毫になる「無礙光」(むげこう)であり、人間のあらゆる煩悩に阿弥陀如来は慈悲の光をお授けくださるの意と教わっている。お堂の入口の脇に江戸時代の俳人横井也有がこの地で詠んだ句「かち人の蹴あげや駕に露時雨」の句碑がある。

住職の田口氏 十王堂正面 阿弥陀如来像 十王堂の前にある句碑