<校長室の窓> 杉原千畝(すぎはらちうね)氏から学ぶ
- 公開日
- 2016/06/20
- 更新日
- 2016/06/20
勝川小学校
勝川小学校のよい子の皆さんへ
先日の中日新聞に、
「杉原千畝氏 通りの名前に イスラエル」
という記事が載っていました。
下の画像の左側が、新聞に掲載された写真です。
記事によると、イスラエルの中部ネタニアで、
第2次大戦中にナチス・ドイツの迫害から、
多くのユダヤ人救った日本の外交官である
杉原千畝氏(岐阜県八百津町出身)の名前にちなんだ
「スギハラ通り」の記念式典が行われたとありました。
写真上段は、杉原千畝に命を救われた男性と
杉原千畝氏の四男伸夫さんが談笑している場面です。
その上に「スギハラ通り」と書いた標識が載っています。
イスラエルは国民の多くがユダヤ人で、
杉原千畝氏の功績を多くの人が称えています。
ここで、杉原千畝氏のことを、もう少し詳しく紹介します。
1940年7月、ドイツ軍に追われてバルト海沿岸の
リトアニアにたどりついたユダヤ人は、
シベリアから日本を経てアメリカに亡命しようとして、
日本領事館に集まってきました。
このとき、領事館にいた外交官杉原千畝は、
ドイツと同盟関係にある日本政府の意向に反して、
人道と博愛の精神から日本入国のビザ(査証)の発行を決断し、
約6000人のユダヤ人の命を救いました。
その勇気に対してイスラエル政府は、
1985年に「諸国民の中の正義の人」として表彰しました。
ビザというのは「入国許可証」です。
それがあれば、ユダヤ人が日本に入ることができ、
さらに日本からアメリカ等に亡命することができたのです。
杉原千畝は、自分の身に危険が迫ることを承知しながら、
6000人のビザを書きました。
最後には、手が腫れてしまったそうです。
岐阜県の八百津町に杉原千畝記念館があります。
その記念館には、杉原千畝が実際に「命のビザ」を
書いた執務室が再現されていると聞き、
私は「ぜひ見てみたい」と思い、行ってきました。
記念館の中には、杉原千畝が決断をし、
命のビザを書いた執務室が再現されていました。
※杉原千畝記念館の詳細は、ココをクリックしてください。
※杉原千畝記念館は、そう遠くありません。
勝川小学校から1時間ちょっとくらいで行けると思います。
杉原千畝氏から私が学んだこと。
それは、人の「命」や「人権」を守るためには、
3つのことが大切であるということです。
1つは「博愛の精神」(広い心ですべての人を平等に愛すること)
言いかえれば、ずばり「愛」です。
1つは「正義感」。
そしてもう1つは「勇気」です。
杉原千畝氏のように、愛と正義感と勇気を持って、
生きていきたいものです。
※杉原千畝氏の詳細はココをクリックしてください。
写真下段が杉原千畝本人です。(写真出典 Yahoo!画像)
高学年の人は、ぜひ、杉原千畝氏の動画を見てください!
ココをクリックしてください。
画像は、なるべく小さくして観てください。
(ところどころ画像が乱れます)