<校長室の窓> 歴史を見る目
- 公開日
- 2016/12/14
- 更新日
- 2016/12/14
勝川小学校
6年生の皆さんへ
歴史学習が終わりましたね。お疲れ様でした。
さて、今日は、ちょっと難しいことを書きます。
皆さんは、赤穂(あこう)事件という事件を知っていますか。
「忠臣蔵(ちゅうしんぐら)」というと、わかる人もいると思います。
12月14日(旧暦)は、「四十七士討(う)ち入りの日」です。
赤穂浪士(あこうろうし)47人が、吉良邸(きらてい)に討ち入りし、
主君の仇討(あだう)ちを成し遂げました。
元禄14年3月、江戸城松之廊下で、播磨(はりま)の
赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が、
幕府の礼式を司る高家(こうけ)筆頭(ひっとう)の
吉良上野介義央(きらこうづけのすけよしなか)に、
小刀で切りかかるという事件が起こりました。
浅野には、即日切腹(そくじつせっぷく)、
領地没収(りょうちぼっしゅう)という厳しい処置がとられましたが、
吉良には、一切のお咎(とが)めがなく、これが事件の発端となりました。
浅野の家臣たちは、主君の仇(あだ)を討つために綿密に計画を練り、
翌年12月14日寅の上刻、
大石内蔵助(おおいしくらのすけ)率いる47人が、
堀部安兵衛宅に集まり、そこから吉良邸へ討ち入りました。
2時間の戦いの末、浪士側は1人も死者を出さずに、
吉良の首を取ることができました。
世論は、武士の本懐(ほんかい)を遂げた赤穂浪士たちに味方し、
幕府は、翌年2月4日、一同切腹という処置をとりました。
この事件を題材として、歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』等の作品が作られ、
現在まで語り継がれています。
さて、この事件で殺された吉良上野介義央は、
ずっと悪役(あくやく)とみなされてきました。
しかし、吉良の領地(現在の愛知県西尾市吉良町)では、
「名君」として尊敬されていたそうです。
その詳細は、ココをクリックしてください。
このように、歴史というのは、視点を変えると見方が変わるのです。
同じ史実(しじつ)でも、取り上げる人によってとらえ方が違います。
例えば、
百姓から関白・太閤まで出世した歴史のヒーロー豊臣秀吉を、
韓国の人々は、「侵略者(しんりゃくしゃ)」と観(み)ています。
日本の初代内閣総理大臣の伊藤博文も、
韓国の人々は、「侵略者」と観ています。
そして、伊藤博文を暗殺したアンジュングン(安重根)は、
祖国の英雄として尊敬されています。
広島・長崎への原子爆弾の投下は、
日本人にとっては、絶対に許せないことですが、
多くのアメリカ人は、
「原爆投下によって、戦争が早く終わり、多くのアメリカ兵や
日本人の命が救われた」
と思っています。
大河ドラマ『真田丸(さなだまる)』のヒーロー・真田幸村も、
家康ファンにとっては、敵なのです。
中学校に入学すると、歴史をさらに深く詳(くわ)しく勉強します。
ぜひ、いろいろな角度・いろいろな視点から歴史を見つめてください。
写真は吉良上野介義央です。(写真出典 Yahoo!画像)